仁愛郷(霧社)

日本時代の台湾の行政区分で一番小さいもの(日本の村にあたると思われます。)は「社」でした。特に原住民が住んでいた山間地の集落に「社」が多くみられました。霧社事件のあった霧社はもともとはセデック族の部落でしたが、日本人の入植によりこの地方では大きな集落でした。現在は仁愛郷となっていますが、バス停は霧社です。

霧社事件についてはこちら

仁愛郷の公所。台湾は「仁愛」という言葉がお好きなようであちこちで見かけます。

 

山間の小さな町です。省道に沿って街が続きます。

 

町はずれ(埔里寄り)の公所からさらに埔里方面に歩いて行くと霧社事件祈念公園があります。

門をくぐるとモーナルダオの銅像。戦後国民党によってモーナルダオは抗日英雄になりました。運動会に集まった日本人の子どもたちと家族を130人以上殺した事件なんですが・・・

 

銅像の奥には祈念碑、その奥にはモーナルダオの墓。

 

公園内には案内板と原住民の像があります。

 

祈念公園からさらに埔里方面へ行くと霧社の町が終わるあたりに電力公社の施設があります。

ここが、霧社事件の起こった公学校跡地です。

 

ここで130人以上の子どもたちと家族が惨殺されました。

 

公学校跡地からさらに埔里方面へ50mほど進むと省道は右に大きくカーブしますが、そこを真っすぐ進みます。50mほど坂道を上がると右に曲がる小径があります。

 

しばらくすると埋もれた階段があります。この階段を上ると霧社事件で亡くなられた日本人のお墓がありました。戦後も丁寧に保護されていたのですが、1972年台湾断交の時に壊されました。

 

階段の上にあたるところには交通局の施設が立っています。

右の写真は施設の上からの俯瞰です。給水塔のある建物が階段の上にある建物です。

霧社事件の頃と何も変わっていないであろう風景。祈念公園の北側から望む。

廬山温泉方向に歩くと市が立っていました。主に農産物の販売です。

 

豆干を煮て高菜のような葉物を煮込んだものを挟んだ食べ物。霧社の名物とのこと。

 

歯ごたえがあっておいしい。この日の昼食は豆干とバナナとアイスとお茶。ヘルシーです。

 

霧社のバス停はセブンイレブンのところに。古いバス停の看板が良い味。

ここの椅子に座っているとバスは当然のように通過してしまいます。道路に出てアピールしないといけません。

トラックが運転席の下から白煙を上げて止まりました。エンジントラブルの様です。昭和40年代の日本の風景と重なります。